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さかどの偉人

印刷ページ表示 大きな文字で印刷ページ表示 更新日:2020年12月28日更新 <外部リンク>

「製紙王」大川 平三郎【横沼出身】

執務中の大川平三郎
     執務中の大川平三郎

平三郎の出生

大川平三郎は、明治から昭和初期に活躍した実業家で、「製紙王」と呼ばれる郷土の偉人です。平三郎は、万延元(一八六〇)年、川越藩三芳野村(現坂戸市横沼)で生まれ、祖父は神道無念流の剣術家・大川平兵衛で、父は修三といい道場の師範代を勤め、母は、武蔵の北端、下手計村(しもてばかむら)(現深谷市)の豪農尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)の妹みち子でした。

祖父平兵衛は、川越藩松平侯の剣術師範を務め、横沼と川越の通町に道場を構えていましたが、藩主の移封に従って前橋に移住し、その後、松山(現東松山市)の陣屋で剣術を教授していました。

平三郎は、祖父や父にならって剣術の修業を重ね、また学問にも身を置き、文武両道に努めました。松山在住のとき明治を迎え、武士の時代が終わると、大川家の生活は大きく変わり貧困の少年時代を過ごしました。そのため、身近で母の苦労を見ていた平三郎は、早く一人前になって母に楽をさせたい、との気持ちが強く一心不乱に勉学に励んだといいます。

青少年期の平三郎と外国への渡航

平三郎は十三歳のとき、叔父で近代資本主義の父と言われた「渋沢栄一」を頼って上京し、渋沢家の書生となって、本郷の壬申義塾、大学南校(東京大学の前身)で、英語、ドイツ語、地理、歴史等を学びました。明治八(一八七五)年、十六歳のとき、渋沢栄一が社長をしていた抄紙会社(現在の王子ホールディングス株式会社)に入社すると、機械・製図の技術を独学で覚えて、会社に大きな利益をもたらしました。
 
明治十二(一八七九)年、平三郎は二十歳の時、製紙法を研究するため単身アメリカへ渡り、帰国後、材料や工程などの改良に取り組み、大幅なコストダウンを成功させ、日本で初めて木材によるパルプ製造に成功しました。

会社の実績を飛躍的に伸ばし、三十四歳で王子製紙の専務取締役に就任して、日本の製紙技術向上に貢献したのです。

「大企業家」大川平三郎の活躍と故郷への想い

平三郎はその後、多くの企業経営に携わり、四日市製紙、九州製紙、中央製紙、八代製紙、富士製紙、上毛製紙、台湾紙業、樺太工業等の経営者として活躍したので、「日本の製紙王」と呼ばれるようになりました。

平三郎が経営に携わった企業は合計八十有余にも上り、多忙な日々を送っていました。一方で、故郷に対する思いは篤く、三芳野村青年団顧問をはじめ、大正十一(一九二二)年には、三芳野村信用購買販売組合(農協の前身)の理事長となって、財政・庶務の改善に尽すとともに、農家の副業として、筵(むしろ)や縄等の製造を奨励して、村の富力増進・生活改善に努めました。

また、横沼地区に消防ポンプを寄付し、三芳野小学校建設等のため私財を投じた他、越辺川の氾濫による水害を防止するため堤防を築き、この堤防は後に「大川堤」と呼ばれ、記念碑が建てられています。

また、大正十四(一九二五)年には、埼玉の学生のために、私財を投じて「大川育英会」を設立し、埼玉県出身の学生に奨学金を提供して、多くの人材を育てました。

このように地域に多くの貢献をしてきた背景には、父母兄弟への「孝悌」と「郷土愛」の心があり、その気持ちは、生涯変わる事がありませんでした。

昭和三(一九二八)年には貴族院議員に勅選、翌年に勲三等に叙せられ瑞宝章を受けました。さらに昭和九年には旭日中綬章を受けました。

平三郎は昭和十一(一九三六)年、その波乱に富んだ生涯を閉じました。享年七十七歳でした。

現在、大川道場の跡地は、平三郎の子孫から寄贈を受け、「大川平三郎翁記念公園」として整備され活用が図られています。

また、坂戸市立中央図書館(坂戸市仲町一の二十三)二階の「大川平三郎常設コーナー」では、大川平三郎に関する展示を行っています。
「大川平三郎翁記念公園」(大川道場跡)の記念碑
大川平三郎翁記念公園(大川道場跡)の記念碑

明治を駆け抜けた女流歌人 中島 歌子【森戸出身】

幼少期の歌子

中島歌子は、江戸末期の弘化元(一八四四)年、森戸村の名士である中島又左衛門と戸口村の豪商安美屋出身の母 幾子の間に生まれました。

歌子は生まれた翌年に、親の商売の関係で江戸に移り住みました。

八歳の頃には、父が池田屋という旅籠(宿)を取り仕切るようになって、歌子の生活もここが中心となります。池田屋は水戸藩の定宿となっており、後の夫となる水戸藩士林忠左衛門も出入りしていました。

九歳の時には、松平播磨守の江戸屋敷に奉公に上がり、行儀見習いとして武家社会の立ち居振る舞いなどを身につけたのです。

結婚と死別、そして歌人としての自立

歌子は十五歳の時、水戸藩士林忠左衛門と婚約しましたが、国事に奔走する忠左衛門の身を案ずるあまり、桜田門外の変の折には、男性の姿をして現場に赴きました。その後、忠左衛門が事件に参加していないことを知って安心したのです。

十七歳の時、困難を乗り越え林忠左衛門と結婚しましたが幕末の時代背景もあり、新婚生活を謳歌する間もなく夫は国事に奔走した後、亡くなり、歌子は二十一歳の若さで未亡人となってしまいました。

その後、歌子は二十七歳の時、幕末という激しい時代の中で、夫との死別を乗り越え女性として自立を志し、安藤坂(現文京区)の自宅に書道の指導のため、「手跡指南(しゅせきしなん)【書道教室】」の看板を掲げました。しかし、生活は苦しく今度は和歌に力を入れたのです。封建思想の根強い時代の中、また、東京で女性が生きていくことは大変難しい中、兄 孝三郎や友人の助けを得ながら和歌を教える塾を開き、自立することを考えたのです。これが歌塾「萩の舎(はぎのや)」の誕生となります。一八七七年、三十三歳の時のことです。
中島歌子書簡三通(坂戸市指定有形文化財「古文書」)
中島歌子書簡三通(坂戸市指定有形文化財 古文書)

歌塾「萩の舎(はぎのや)」の隆盛と樋口一葉との出会い

中島歌子の肖像写真
中島歌子肖像写真
この「萩の舎」において、多くの上流階級の婦人や子女などに和歌と書を指南しました。このことは、当時の人々の和歌への関心が高まっていたことへの歌子の先見の明であったのでしょう。師匠としての歌子は、親切かつ丁寧に歌の心を教え、相手の技量に合わせて具体的な指導、助言をして好評を呼んだのです。その門人の中でもとりわけ著名なのが、十四歳で「萩の舎」に入門した樋口一葉(ひぐちいちよう)です。一葉のことを、歌子は高く買っていたようで、歌子の指導と一葉自身の努力により、一葉は三宅花圃(みやけかほ)とともに「萩の舎」の双璧といわれるまでに成長したのです。

困難に負けず、自らの歌人としての信念を貫き、時代を駆け抜けた歌子は、明治三十六(一九〇三)年に五十九歳で逝去しました。葬儀の時は、弔問者が長い列を作ったといいます。この時、歌子は従七位に叙せられています。

歌子は三十歳代の頃、兄に宛てて手紙を送っていますが、その頃の手紙が平成十七(二〇〇五)年に、森戸の子孫の宅で見つかり、「中島歌子書簡三通」として坂戸市指定の有形文化財(古文書)に指定されています。

このように、愛情深い教育者でもある中島歌子は、郷土が生んだ偉大な歌人です。
 
また、中島歌子を題材とした小説「恋歌(れんか)」(朝井まかて著)は、二〇一四年一月に第百五十回直木賞を受賞しています。

天才鋳金家 鈴木 嘉幸(かこう)【石井出身】

鋳金家としての活躍と傑作の誕生

鈴木嘉幸(本名:長吉)は、嘉永元(一八四八)年八月十五日、坂戸市石井で生まれ、少年期に東松山の鋳物師、十文字屋 東龍斎 市川友吉に弟子入りして、鋳金技術の腕を磨きました。のちに東京に住まいを移すと、旧京橋区(現中央区)明石町に工房を構え、鋳金家「鈴木嘉幸」として活動を開始します。

二十六歳の時、起立(きりゅう)工商会社の鋳造部監督に就任し、当時の明治政府の外貨獲得政策の一環としての、鋳造品輸出において大きな貢献をしました。

嘉幸は、明治九(一八七六)年、二十八歳の時、フィラデルフィア万国博覧会に「銅製鋳物香炉」を出品して優勝するなど、世界の博覧会で優秀な成績を収め、その実力を海外に示しました。嘉幸は特に「鷲」、「鷹」などの「猛禽類」の造形を得意とし、四十五歳の時、明治二十六(一八九三)年のシカゴ万博では、嘉幸の最高傑作の一つとされる「鷲置物」を出品しています。この作品は、東京国立博物館の所蔵品となり、重要文化財の指定を受けています。

帝室技芸員としての栄誉と世界に羽ばたいた作品

明治二十九(一八九六)年、四十八歳の時には鋳金家としての高い技量が認められ、現在の人間国宝に相当するともいわれる「帝室技芸員(皇室の美術奨励に基づく美術家の栄誉職。戦後廃止)」に選ばれ、さらに活動の幅を広げるようになりました。

作品の多くは、海外に輸出され、超絶した技巧を駆使し精緻を極めた作風で、世界を驚嘆させました。国内に残る作品は、東京九段の靖国神社拝殿前の「青銅大燈籠」が有名で、出身地である石井にも「大日本東京・帝室技藝員・鈴木嘉幸」の銘の入った「青銅火焔飛龍文花瓶」(せいどうかえんひりゅうもんけびょう)をはじめ、勝呂神社神号額などの作品が残されています。また、東京芸術大学にも「波涛文盤」が所蔵されるなど、その芸術的価値は高く評価されています。

作品は海外コレクターの所蔵が多く、「対孔雀文香炉」については大英博物館に所蔵されており、嘉幸は世界で認められた坂戸出身の偉人といえるでしょう。

謎多き天才鋳金家、鈴木嘉幸は、大正八(一九一九)年一月二十九日、七十一歳で逝去し、東京谷中の延寿寺日荷堂墓地で静かに眠っています。

令和二年に国立工芸館が石川県の金沢市に移転したことに伴い、嘉幸の代表作の一つである「十二の鷹」も所蔵作品として移されています。
青銅火焔飛龍文花瓶(坂戸市指定文化財「工芸品」)
青銅火焔飛龍文花瓶(坂戸市指定有形文化財 工芸品)

鈴木嘉幸顔写真アップ

鈴木嘉幸(写真所蔵者:国際日本文化研究センター)

鷹匠・鈴木嘉幸(鋳金家、作者)・林忠正(「十二の鷹」考案者)

鷹匠・鈴木嘉幸【鋳金家、作者】・林忠正【「十二の鷹」考案者】(写真所蔵者:国際日本文化研究センター)

「12の鷹」コロンブス博覧会に向けて

「十二の鷹」コロンブス博覧会に向けて【東京帝国ホテルにて】(写真所蔵者:国際日本文化研究センター)

「十二の鷹」の一つ

「十二の鷹」の一つ(写真所蔵者:国際日本文化研究センター)